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2009年04月 アーカイブ

2009年04月15日

後ウマイヤ朝

後ウマイヤ朝(こうウマイヤちょう、756年 - 1031年)は、イベリア半島に興ったウマイヤ朝の再興王朝。新ウマイヤ朝、西カリフ帝国とも呼ぶ。日本での通称は後ウマイヤ朝であるが、史料や外国の研究者はアンダルスの(またはコルドバの)ウマイヤ朝とよぶ。

ウマイヤ朝がアッバース朝に滅ぼされると、アッバース朝の残党狩りは執拗を極めた。ただ一人生き残ったウマイヤ家の王族アブド・アッラフマーン1世は身につけていた貴金属を逃走資金に変え、アフリカ大陸に入りアフリカ西北部のベルベル人に保護された。彼の母親はベルベル人であり、その容姿を受け継ぎ、金髪で瞳が緑色であった彼はベルベル人に温かく迎えられたばかりか、ウマイヤ朝再興の足がかりを築くことができた。彼はジブラルタル海峡を越えてアンダルスに逃れ、756年にムサラの戦いに勝利してコルドバにウマイヤ朝を再興した。

アッバース朝に匹敵する繁栄
アブド・アッラフマーン3世は、フランク王国やノルマン人の侵入を防いで勢力を維持するのみならず、トレド奪回などの戦果も挙げた。学芸の中心地でもあったコルドバはヨーロッパ諸国の留学生も迎え入れて大いに繁栄した。ヒシャーム2世の時代には、宰相でかつ名将であったアル・マンスール・ビッ・ラーヒ(西名アルマンソール)が、985年にカタルーニャまで攻め込み、997年にはガリシアの一部まで占領する勢いを示した。

後ウマイヤ朝はアッバース朝に匹敵するほどの繁栄の時代に達した。10世紀の地理学者イブン・ハウカルは、当時のコルドバはバグダードには敵わなかったが、エジプト、シリア、マグリブのどの都市よりも大きかったと伝えている。10世紀のコルドバは世界でも有数の大都会であり、史料によると人口は50万を下らなかったと推測されおり、西欧で最大の都市であった。コルドバは洗練した文化の都ともなり、クリスタル・ガラスの製法は9世紀後半にコルドバで生まれ、金銀細工の技術も発達した。

また、バグダードからコルドバの宮廷によばれたジルヤーブは琵琶の演奏や歌手として名声を博し、バグダードの優雅な文化をコルドバにもたらした。彼がもたらしたものは、例えば、フランス料理の原型となった料理コース、ガラス製の酒杯、衣服を季節ごとに着替える習慣、髪の手入れ、白髪抜き、歯磨きの使い方、などである。

10世紀半ば、コルドバの西北7キロの小高い丘にザフラー宮殿(花の宮殿の意味)が建造され、大理石だけでも4000本が使われ、宮中には40万巻の書籍が集められた。おそらく、当時の世界で最も輝く宮殿であっただろう。

統治下で、さまざまな宗教や民族が共存しえたことは、この王朝の繁栄に大きな貢献をもたらした。一部のキリスト教徒は移住したが大部分はイスラムの支配下で信仰の自由を許されて暮らした。ユダヤ教徒も西ゴート王国時代には冷酷な扱いを受けることが多かったが、イスラム支配下では自由と繁栄を享受した。また、イスラム文明が極めて高度な文明であったので、それを土着のスペイン人がすすんで受け入れたことも安定したムスリム社会を形成した理由だろう。

衰退から滅亡へ [編集]
アル・マンスール・ビッ・ラーヒが1002年に死ぬと、息子たちの宰相位争いとスラブ系の豪族とベルベル系の豪族によるカリフ位の擁立合戦、継承争いで29年の間に10人のカリフが即位するという内憂によって衰退し、アラゴン王国・カスティーリャ王国に圧迫されるという外患の末、1031年に最後のカリフ、ヒシャーム3世が亡くなると大臣たちによる「評議会」によってカリフの廃位が決定されて滅亡した。以後は、各地の豪族たちが独立し、26とも30とも言われるタイファと呼ばれる諸侯たちとなって分裂割拠する時代となる。

歴代アミール [編集]
アブド・アッラフマーン1世(756年 - 788年)
ヒシャーム1世(788年 - 796年)
ハカム1世(796年 - 822年)
アブド・アッラフマーン2世(822年 - 852年)
ムハンマド1世(852年 - 886年)
ムンジル(886年 - 888年)
アブド・アッラーフ(888年 - 912年)
アブド・アッラフマーン3世(912年 - 929年)

歴代カリフ [編集]
アブド・アッラフマーン3世(929年 - 961年)
ハカム2世(961年 - 976年)
ヒシャーム2世(976年 - 1009年、1010年 - 1013年)
ムハンマド2世(1009年、1010年)
スライマーン(1009年 - 1010年、1013年 - 1016年)
アブド・アッラフマーン4世(1018年)
アブド・アッラフマーン5世(1023年 - 1024年)
ムハンマド3世(1024年 - 1025年)
ヒシャーム3世(1027年 - 1031年)

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2009年04月30日

大嵩璘

大嵩璘(だいこうりん)は、渤海の第6代王。

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大華璵が病没した後、大欽茂の末子である大嵩璘が王位を継承した。当初は国務を権知(暫定統治)するとしていたが、794年(中興2年)に即位し正暦と改元した。

これに対し唐は内侍の殷志瞻を派遣し冊封したが、大欽茂が渤海国王に封じられたのに対し、その下位である渤海郡王のみが除授されたに過ぎなかった。これに対し渤海側は渤海国王の徐授を求め唐に使節を送り797年になりようやく銀青光禄大夫・検校司空・渤海国王に封じられるに至った。

政策面では日本に宛てた国書の中にある通り朝維(国家の綱紀)は旧に依るとの方針を貫き、在位中は唐に対し頻繁に使者を派遣し交流し、また日本に対しても積極的な経済・文化交流を進めた。

渤海では2代続いて短命の王が在位したことにより国内に混乱が発生したが、大嵩璘の治世下で安定を回復し、更に国力の発展を見たと考えられている。

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